日常的な施療時間内では、お伝えしきれないことが多いので、ブログでこころとからだの相関関係について、またはこころやからだを楽にして頂くためにお役に立ててもらえるんじゃないかな?と、思える著書を少しづつご紹介していきたいと思います。
第一回目は河合隼雄先生「こころの最終講義」
これから、河合先生の御著書は何十冊もご紹介していきたいのですが、第一回目にこの御著書を選んだのはお写真が好きだからです(笑)
本当に温かい素敵な老賢人の笑顔です。
ここからは、本の感想というより、極私的な河合先生との思い出話になります。
もともと、私の大学時代の専攻は臨床心理学で、森野礼一先生のゼミに所属しておりました。森野先生と河合先生は京大時代のお仲間であられて、ゼミを通じて色々と交流もあったようですが、私は学生時代は御高著を通じてしか存じ上げませんでした。
初めてお会いしたのは、私が臨床心理士になることを諦めて、京都の料理旅館の若女将として働いていた前職の時です。森野先生と河合先生の門下生は重なるところがあって、その門下の先生方の会をそこで開いて下さっていたのです。
当時、森野先生はもうお亡くなりになっていて、ご一緒にお話をすることは叶いませんでしたが、河合先生は森野先生との思い出話を懐かしそうにお話しくださっていました。
そして、森野先生門下の末席を汚しただけの私の人生の転戦をとても面白がって下さいました。
その後も雑誌の対談や、日文研時代、文化庁長官となられてからも、何度お目にかかっても先生は偉大な人、なのにフットワークの軽い、ご自分が面白い以上にお話なさる方を面白くされる天才でした。
今でも目に浮かぶのは、門下の先生方の周りをお一人づつ、ご自分から回ってお酌されるお姿です。先生はスーパーアイドルですから、中心にお座りになっていたら次々と皆様がご挨拶にいらっしゃるのですが、それでは偏りがあると思われるのでしょう。いつもご自分から腰軽く、隅々までこころをいきとどかせていらっしゃいました。
先生が倒れられたという第一報があったとき、先生を存じ上げる誰しもが、超ご多忙の中、そのご自身の限界までそのすべてにこころをいきわたらせる、いきとどかせるそのご姿勢に原因があったのではないかと無念に思われたことと思います。
先生がお亡くなりになってから、早いもので10年が経ちました。
10年の歳月の間に、私は離婚し、職も辞し、関節リウマチに苦しみ、東洋医学に出会い、息子も巣立ち、鍼灸師となり、奈良に開業することになりました。
10年前には思いもかけなかったところに今私は立っています。
今は、京都から近鉄で奈良まで通っていますが、先生のご自宅のある西大寺を通るたびにいつも私は先生の叡智に満ちた笑顔を思い出します。
そうそう、ならまち月燈に「女性臨床鍼灸」と名づけている理由ですが、初めのご挨拶にもさらっとは書いたのですが、実はものすごくこだわったんです。
保健所さんに名前を届けたときに、「臨床」という言葉が医院とまぎらわしいから使用してはいけない可能性があるといわれて、徹底抗戦するために、10冊ぐらい参照文献をもっていって用意していたくらい・・結果は、難なくOKだったんですけど(笑)
もともと、心理学は実験心理学が主流でした。昭和27年当時、高校教師であられた河合先生が、目の前の生徒の役に立つことをと求めて臨床心理学を学ぼうとされたときは、「そんな心理学は学問ではない」「科学ではない」と、常に非難にさらされたそうです。
臨床心理学隆盛の今からは隔世の感がありますが、私が学んでいた30年(!)前でもまだそんな名残、雰囲気はあって、論文集を見ても、文系の私にはチンプンカンプンな無味乾燥なものがほとんどだった記憶があります。
今は事例研究が中心で、また河合先生がお亡くなりになられてからは、色々と学会にも変化があるようですが、それでも、世界を自分から切り離して観察し研究する『近代科学による知』にたいする、自分をも入れ込んだものとして世界をいかに観るかを大切にする『臨床の知』、生身の人間を相手にして実際に役立つことをする、聴くことを大事に・・というような臨床の基本は失われていないでしょう。
ひるがえって、鍼灸の世界をみてみると、もともとが三千年とも四千年ともいわれる古典を抱えて、無数の現場から生まれた知恵です。臨床とわざわざ名付けるまでもなく、鍼灸は臨床の知恵でしかありえません。
しかし、一度明治期に絶滅に瀕し、西洋医学に人を治すということの首座を明け渡してからは、そんなのんびりとしたことはいってられなくなりました。
保険行政に載せようと思えば、エビデンスということが必ず必要となります。
西洋医学に対抗できるような、科学的なお墨付きが必要なのです。
WHO(世界保健機関)がどうプロパガンダしているなんてこともとても大事です。
もちろん、それは非常に大事です。
鍼灸の科学的効果を測って研究して下さる先生方にはものすごく敬意を払います。
でも、私にはその才がないので、とにかくお越し下さる目の前の患者さんのお役に立てることに一生懸命に打ち込める場所がつくりたい・・という想いで『臨床』という一言にこだわったのでした。
熱弁をふるったわりには、しょぼい結論ですが、というわけで、「こころの最終講義」の内容については何も触れられなかったので(笑)、またおいおいにということで。
毎日少しづつ書けばいいのですが、書きたいとなると怒涛のように勢いがついてしまって・・・お読みくださってありがとうございました。