
画像は8年前、「ならまち月燈」を創業するときに、ホームページに掲載するために院の扉の前で撮っていただいたものです。
二人とも、確実に8年若く、わたしより尾垣先生は10歳以上年下なので、本当に学生さん?というようなお若さですね。
わたしが初めて尾垣先生にお目にかかったのは、鍼灸の専門学校2年の時に参加した、経絡治療学会夏期大学でした。
班も一緒でしたし、同じ学校ということで、修了後のカジュアルなパーティでもお話した記憶があります。
私と尾垣先生は、同じ学校の同期生ですが、尾垣先生は鍼灸科、私は本科というあん摩マッサージ指圧も含むコースに通っていたので、学校内ではお会いしたことはなかったのです。
でもその時の印象は鮮烈で、風の又三郎のような、爽やかな颯爽とやってきて、颯爽と去っていく・・というイメージが残っていました。
二度目にお目にかかったのは、卒業後、整形外科付属の東洋医学センターで働いていた時です。
私が先にパートとして働いていたところに、正社員として入職されて、あ!あの時の・・となりました。
その時のことを思い出すと、ただただ楽しかったです。
空き時間に好きな本や、治療家の話をしていると、とても手応えがあって面白かったんです。
わたしも尾垣先生も野口晴哉先生の整体論に痺れていて、しかもその奥様の野口昭子さんのエッセイが好きだった。
それが決定打のようになって、その延長線上に鍼灸院を開くなら、尾垣先生と一緒だったら面白いだろうな・・と思っていて、ならまちの古民家物件をネットで見つけた時に、一番に相談したのが、はじまりはじまり・・だったのです。
考えてみたら不思議です。
その時私も尾垣先生も京都に住んでいて、病院も京都、私は2年後に奈良に引っ越すことは決まっていたけれど、尾垣先生は大阪に住むことになったのですから。
どうして奈良、ならまちだったんでしょうね。
私が場所を一目見て決めたように、尾垣先生も近くにある猿田彦神社は自分の神社でとてもご縁がある場所だと思います・・と、迷わずに決めてくださいました。
ならまちには地縁も血縁もない私たちでしたが、なにか女性専門の鍼灸院をはじめたくなるものがあったとしかいいようがありません。
尾垣先生は、徐々にてい鍼(刺さない鍼)の腕を磨かれて、それに特化されるようになりました。
私は指圧に集中するようになり、いわゆるはりとお灸は、あとから加入してくださった先生方によって維持されることになりました。
8年の間には、それぞれにいろいろな模索をしましたし、理想とするかたちもそれぞれに変容したかもしれません。
私にはわからないような、繊細な感覚の方の繊細なお悩みに、尾垣先生はよく応えてくださいました。
「ならまち月燈」には、「ならまち月燈方式」というようなものはありません。
それぞれの先生の持ち味と人格で、患者様に対していただければよいという考えであり、その器でありたいと思っています。
そして、それぞれの先生方のライフサイクルの中で、自由に出入りしてくださる場になれればいいと思っていました。
この度、尾垣先生より、卒業のお申し出がありました。
たぶん、「ならまち月燈」ではないどこかで、魂の修業をされるために、一旦、身を離されるのだろうと思います。
病気療養中の佐藤先生とは違って、必ず帰ってこられるとはお約束できません。
もしかしたら、二度とお戻りではないかもしれません。
尾垣先生と出会わなければ、「ならまち月燈」は始まりませんでした。
本当に8年間有難うございましたと、深く感謝の意を捧げます。
尾垣先生の最終出勤日は4月26日です。
尾垣先生にご担当頂いていた患者様には、突然のことで、本当に申し訳ありませんが、予約枠も限られておりますので、どうぞお早めにご予約下さいませ。
ならまち月燈の先生方はみなそれぞれ、かけがえのない先生ばかりなので、尾垣先生の代わりになる先生もまたいらっしゃいません。
またいつかどこかで、尾垣先生ご自身の場をお創りになられたら、その時はまたこのページでお知らせができればいいなと思っております。
尾垣先生、本当にお疲れさまでした。
あとひと月、どうぞよろしくお願い申し上げます。